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プーチンと自由意志

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 茂木健一郎の脳の教養チャンネル   茂木健一郎  

動画へのコメント

  • 1,何をもって自由とするのか? 道の真ん中に立ってどこにでも行ける自由があったとする。しかし空は飛べないし、地面にも潜れない。平面に進むしかないが、普通は道なりに進む。へいをよじ登り人の家の庭を歩いたりはしない。それを不自由と言うのか? 自由と言うのか?2,腹をすかした熊がいて人を食ったとする。その熊は撃ち殺される事でしょう。熊には他に選択肢がなかったとしてもです。3,運命論みたく、未来はすべて決まっていたとする。でも子供がプロ野球選手になりたければ、野球の練習をするしかない。野球の練習をしたことのない人がたまたまプロ野球選手になる事はない。プーチンが10年前に暗殺されていたら、ウクライナ戦争は起きなかったと、多くの人が思うでしょう。人に自由意志があろうが無かろうが、やる事は昔と同じで、これからも変わらないと言う事です。自分にとってストレスのない自由があると思えば自由だし、他人から見てあの人は自由だと思えば自由なのでしょう。精神的な自由が自由だと思います。そもそも自由が良いとか必要だと思う事自体が、ただの人の精神的な事なのだから、人にとっての自由などその程度だと思います。
  • 人に対しては、脳の中のああ言えばこう言う回路が作動するんじゃないですか。
  • 以前にもコメントしましたが、ウクライナ―ロシアとは別に、パレスチナ(ペリシテ)―イスラエル(ユダヤ)で眺めてみます。 『旧約』の「ダビデ物語」はペリシテとユダヤとの戦争を、ユダヤの側から描いた物語です。そこではダビデが武器も鎧も捨てて、小石を拾って敵将ゴリアテに投げて倒すというシーンが描かれ、この戦争が神の戦い「聖戦」であるから、鉄の武器を持つ相手にさえ、勝てたのであると、侵略戦争の正当化をしています。実際にはユダヤの遊牧部族は投石器を持っており、この飛び道具の強力さで勝利しているはずです。 物語のストラテジーは民族主義(自分達中心主義=自己中)での民族歴史伝承です。実際は、パレスチナにおいて一方農耕定住生活をした人々、他方遊牧移動生活をしていた人々の「自然的」生活発展過程において起きた出来事でした。農耕生活は定住で集団社会規模が拡大します。そして開拓します。同じ土地で家族集団中心の移動生活をしていた遊牧の部族が多くいました。農耕民の開拓地は、遊牧部族の遊牧地でもあったわけで、先祖から(=神から)与えられていた土地だ、と言って奪還しようとします。小さな部族では勝てないので、民族統一を、部族連合から進めます。先祖神から統一神ヤーウェ(特定先祖神の名にバイアスがかからない「在る」=ヤーウェ)の名の下で集結し、農耕民の集落を徐々に侵略していきます。そして遊牧民は、生活様式を農耕の安定したものに変え、農耕文化も獲得します。12部族の12という象徴数はその典型です。 さて、ここまででも明らかなように、侵略戦争は、こうした民族主義=自己中心主義のイデオロギーが突き動かすものだと思います。「神国日本」も「ナチス」も、同じでした。 今もプーチンの論文にあったように、ロシア、ソ連のアイデンティティを示すイデオロギーは、ウクライナは他国の地、他民族であってはならないとされます。中国も台湾に対して、同じ論拠を持ちます。 自由意志に働く「自然な」論理=イデオロギーになってしまっていると思います。大元は生物の生存繁栄のテリトリー争いでしょう。それを大脳が肥大化して観念操作を主として行うようになった人間の「戦争」が、「聖戦」さえ生んでいると思います。 これを超克したはずの『新約』は、上の様な「家族・一族・部族・民族」の自己中心主義をすてよ、「(神)天の国は近づいた、悔い改めよ!」としたのです(神は人間的権力を表現するので、天、父、主と新約はしています)。「家を捨て、家族を捨てよ。私の母、兄弟とは誰か?」と記されています。 そして平和を実現するためには、「赦ししかない」と強調します。「右の頬を打たれたら、左を差しだせ」と言い、結局、十字架にかけられて「死」という「敗北」に至ります。 ここで理解できると思います。生物的次元の「自然な」意志決定ではありません。自然の内に流れる生存・繁栄の途筋ではない推論が生じていることになります。 ここに「復活」が置かれます。「天の国、復活の時には、娶ることも嫁ぐこともなく、男も女もなく、天使の様になるのだ」としました。『新約』はさらに記述します。それを下に貼り付けます。 復活者に会っても弟子達はその姿では認知できず(感覚認識で識別できない)、コミュニケーションをとりながら、そのコミュニケーションの象徴であるミサ(御言葉の伝達=パンを割く式・分配伝達)という食事をしたとき、はじめて、主と分った。  極初期のキリスト教教団(ユダヤ教を超克しようとしたユダヤ教から出た一分派としての、イエス教団)を、迫害するために、その活動を調査し、「イエスの言葉と行い」を知った(情報を得た=ミサにおけるパンが象徴する言葉を伝達コミュニケーションされた)パウロ=ローマ文化圏にいたユダヤ教知識人は、自らが事情聴取をしたアナニアという婦人の「とりなしによって」、「目から鱗が落ち」、復活者に出会ったと記述した(そのストラテジーは、他の生前からイエスを知る弟子のグループへの、自身の見解の担保にあったようだが)。  こうしてみると、実は、新約の著者たちは、プラトン、アリストテレス、フィロン等々のような論理必然で導かれる、情報展開過程の宇宙自然を、既に見ていたのかもしれないと、思えてきます。  ただ、この結論に至る前に留意する点は、世俗化しないことです。グノーシス主義等が異端になるのは、「救済の智惠(情報)」を知れば救われるというような自己中心主義への問題があったからだと思います。その場合、せっかく超克しようとした旧約の立場に戻ります。旧約は民族主義(家族主義・一族主義・部族主義)という、自己中心主義のストラテジーを持っています(そのため、未だに戦争を聖戦として正当化しています)。新約はそれを否定します。否定したため、「敵を赦す」ことを徹底して、自らは十字架にかかってしまいます。「負けるが勝ち」と言っても死んでは元も子もないと言いますが、新約は、ここに「復活」を示しました。  そして、この「復活」は、ブラフマン‐アートマン・モデルの様な社会現象に観られる情報展開過程の様相で説明されるものでなく、同様に中世アラビアで『霊魂論』解釈から出てきた「知性単一説」の様に理解されるものではありません。  トマス・アクィナスが「個のイデア」そして「天使論」で示した、知性的個体の「復活」であると考えられるのです。  トマスからスコトゥスの「これ性」を経て、「モナド」を論じたライプニッツにおいての議論を眺めてみます。よく問題にされるのが、「弁神論」から出てくる「予定調和」ですが、これも、上で見てきた様に「復活」の段階までを「個体論」に加えれば、整合性がきちんと見出せると思います。善悪の問題を弁神論に問うとき、「選ばれた者」=神の意志に選択される者が復活の終末を迎えるとされます。もし、復活の終末を加えなければ、十字架での死が終わりとなって、救済論は矛盾します。  どうやら、新約の著者たちは、論理必然の推論を、極限までやってのけて、その集合集積知を纏めて記述したかに思えるのです。私の思うところ、ノエシス・ノエセオスの論理をしっかりと理解したものたちばかりに思えます。  現代なら、デイビッド・ドイッチュでエネルギー(エネルゲイア=父)を知り、マックス・テグマークでロジック(ロゴス=御言葉/子)を知り、カルロ・ロヴェッリで関係作用(コミュニケーション伝達の働き=聖霊)を知ったというような、そうした教養人たちが新約をまとめた気がしてなりません・・。 自由意志が、最も深いところで宇宙のこうしたエネルギーの流れに沿っているということは言えないでしょうか?
  • 自由意志の有無と個々人の責任性の問題はカルヴァンが予定説を唱えた頃から問題になっています。現実には我々には選択に迷うことがあり、迷った末におみくじみたいなもので決めることもあります。私たちが自分の意思が流動的であることを感じており「選択が可能」な状態にあることが多いわけですが、その時、脳内のプロセスとしては、複数の小さな意思決定が同時並行的にニューロン単位でおこなわれており、それがある程度の総量になった時、最終的な意思決定として現実化しますが、どこのニューロンの結論にどのような「重み付け」をするかというのは、かなり流動的です。この重み付けの作業は、直観や妄想、感情、ある種神秘的な体験や、過去の記憶やイメージなどの影響を受けた、意識的かつ無意識的な脳の働きによって促されます。つまり、重み付けの作業に意識が関わっているということです。たとえば、ある人にお礼をする時にどういうお礼をするのか悩んでいる場合、仔細に検討しますが、「この場合、自分は何を重視して、どう考えるべきなのか」という思想や指針、モデルケースなどの存在が意思決定に関与します。これらが働かなければ最終的な意思決定とならないケースはよくあるので、こうした重み付けを含めた微細な結論を統合していく働きを「自由意志」という言葉で定義すること自体は可能であり、現実的であるといえます。これは自分が意思決定するより前にすでに意思が決定しているというのとは別の視点です。
  • FIELDとAREAの特性とGROUP及び個人の関係性を現象分析のBASEにしたいと思うのですが、難しくお手上げです
  • University of Mogi Ken bridge自由意志学部プーチン思考回路学科
  • 専制国家の体制政治システムでは、より明確に自由意思がないことは理解しやすい。よって議論、討論、多数決という民主主義政治体制システムが重要な意味を持つ。

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出典:茂木健一郎の脳の教養チャンネル

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