「茂木健一郎の脳の教養チャンネル」が新しいYouTube動画「「神」はすべての人の立場を経験していなければならない。」を投稿しました!
茂木健一郎の運営するYouTubeチャンネル「茂木健一郎の脳の教養チャンネル」が新しい動画「「神」はすべての人の立場を経験していなければならない。」を投稿しました!
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「神」はすべての人の立場を経験していなければならない。
茂木健一郎の脳の教養チャンネル 茂木健一郎
動画へのコメント
- 経験している時点で、それは、神ではないのでは?
- 私は、最近、キリスト教に関する本を3冊読みました。西洋では、古代から中世にかけてキリスト教、つまり、神学が絶対的でした。近代に入ると多くの学者が神学から離れ、天文学、数学、生物学などと枝分かれしていきました。ニュートンを始め、多くの学者が聖書に書かれている時間を疑い、特に、地球の歴史との違いを検証して今の科学に値する多くの出来事を見つけ出しました。では、現代はというと、神学に変わり科学信仰が行き過ぎたため、また、神や妖怪などの超自然的なものを見直そうとする動きが見られてきています。近代から続く科学や自由についても例外ではありません。茂木先生の仰る通り、神は多くの経験を通していると思います。それは、人間が手の届くものではありません。そして、結論から申し上げると、人間はその不可能性、不自由性とどう向き合っていくべきかと思います。
- 茂木先生の博識と突拍子もない発想には驚かされます。神はいくつの輪廻転生を繰り返して神の世界に行けたのでしょうか?それこそ、スピノザの無限に値するのではないでしょうか。人間はいくら行いを繰り返しても、有限にしかなりません。神には、きっと、有限から無限に切り替わるスイッチを持っているのでしょう。繰り返しますが、人間は人間である以上、輪廻転生を繰り返しても苦肉を味わいながら人としての一生を繰り返すのでしょう。
- ふに
- 親鸞のいう悪人正機の悪人とは我々が使う悪人の定義とは違います。それは良いとして。正機はただの入り口であり、信仰は主体性の話である。南無南無南無阿弥陀
- 手塚治虫の火の鳥も罪人や悪人が出てくるし、表裏一体、森羅万象という言葉もこの動画の後には考えさせられます。
- 私はずっと、おそらくこの世には私しかいない…と思ってきました。記憶のシステムが個別に備わっているから別人だと思い込んでいるだけで、意識は全部私。私は私。茂木健一郎も私。いじめっ子も私。いじめられっ子も私。イスラエル人も私。パレスチナ人も私。私が私を痛めつけて、私が私に仕返しをして、私が苦しんでいる。私が私を愛して、私が私を裏切る。全部私なのに。そしておそらく、神も私。ところが最近になって、ひとつ大きな問題が現れてきました。AIは果たして私なのか?ひょっとしたら、初めて現れた私以外のものなのではないか?そういう意味でも、AIのめざましい発展を興味深く見守っています。
- 何度かコメントさせていただいておりますが、「神」概念は、人間の族長・君主という共同体社会概念であることは、もう議論の余地はないと思います。動物のリーダー・ボスの延長でしょう。これを自然現象の「何か大きな力」にも、personificationで結び付けたと言えます。 その経緯は、自然観察・観測をしてそこに法則を見出し、人間社会のノモス(法)を投影して自然法則とします。それを実践化して技術にします。原始古代社会でその知と技術を有する者がその継承を為す集団になり、上の君主の下に置かれます。ここに、神と神々とが位置づけられます。日本なら天皇と神社との関係です。ギリシャのゼウスとポリスとの関係です。ユダヤがヤーウェで遊牧部族を民族統一した様式も、類同します。 さて、神概念はこれで理解したことにして、問題の中心に入ります。茂木先生がここで「神」とされたのは、決して本来の人間的君主からの神概念ではなく、「何か大きな力」の事だと思います。それは古代から「純粋(完全)現実態」であると推論の論理必然で帰結され、その位置にまた「ノエシス・ノエセオス」が置かれます。この論理必然で把捉されてきた現実態=エネルゲイアには、ありとあらゆる物事が内包されていることが、論理必然の帰結となります。当然、人間の全ての様態をも、ノエシス思惟=自己認識において、ノエセオス思惟内容=自己概念の一部に、全ての可能・現実宇宙の無限な概念ロゴスとしてあるはずだとされます。
- 神は何もしないゆえに神は存在しない。しかし全てを知っている神ならば沈默状態になりそうだよな。だからこそ予測不可能なシミュレーション世界を作って観測することで暇つぶししているのかもしれない。まあ俺は神=宇宙そのものだと思うよな。神が存在する為には神の存在を維持する世界が無ければならない。しかし唯一それを叶える仕組みがあるとすれば神である宇宙が膨張し続けることかもしれない。とはいえ世界が一つというより観測者の数だけ存在すると考えた方が好きかな。全知全能の神が存在している世界はつまらないので。
- 仏性を人を選ばず宿らせたのはそういうことなのかな
- 現代の日本の合理主義者の多くが信じないと言う神は、キリスト教的な神のように、愛を持つ人格的な神、世界を創造した超越的な神、という印象を持ちました。現代の科学的な解明や探求の先端にいる人たちの神は、スピノザ的な神のように、人格的存在ではなく無限の実体であり、世界を創造したのでなく世界と同一であり、万物は神の創造物でなく世界の一部であり神の一部である、という印象を持ちました。また、キリスト教は信者に対しての意識を持っている、スピノザは真を追求しているという印象を持ちました。宗教も科学も哲学も、切り離れた別物でなく何かつながっているような感じがして、おもしろいようなうれしいような気持ちになりました。神即自然、僕たち人間が細胞で形成されていたり細菌を包含していたりするのも似ていて、神も僕たち物質で形成されていたり人間を包含していたりするのかなと思うと、なんだか自然、いいなと思いました。フラクタルな美しさとも連想します。
- 神が悪を経験する必要があるという視座は実践的にも非常に重要で、私たちは悪を断罪するより先に悪とは何かを理解する必要があり、善を志向するより先に善とは何かを理解しておく必要性がある可能性を示唆しています。たとえば、偽善について深く考えなければ、マスコミに言われるままに、善だと思いながら偽善に手を貸すことも多くなるような気もします。
- 全てを見ている(見通すことが出来る)神、という前提が分からない。そんなのある訳ないだろう、と云う前に、何故それを前提にしようとするのかが良く分からない。昨日のドジャースのメッツ戦見てたら本当に驚いた。去年、一昨年は勿論、恐らくはここ10年位、ポストシーズンであんなにも生き生きと選手が活躍するドジャースというのを見たことが無い。大体先発が潰れて、打線もそれに影響受けて、何時もの力を発揮できなくて…というのが昨年迄のパターン。ところが、やることなすこと全て決まる。見事なまでに決まる。打線も投手も守備も完璧。そうなったのも全て、大谷のせい。パドレス戦で追い詰められた時に、大谷は一人だけ、あと2つ勝てば良いだけですからみたいなこと言ってた。ビックリする位強気で、本当にその通りになったw そしたらそれが周囲の選手に感染した。こういうのって、どの組織にもあるんだろうなぁ~と思った。それが「意識」のせいなのか、「気」とか「心」なのか、良く分からないけども、少なくとも大谷は「神」ではないんで。
- 期せずして神と天皇のことを考えておりました。示唆に富むお話ありがとうございます。
- じつは私は結構面白い考えを持っています。「神はどんなにみすぼらしい人生でも、そんな成功した人生でも、どんなに幸福な人生でも、どんな不幸な人生も、どんな犯罪者の人生も、独裁者の人生も全部経験していないといけないなと、神はずべての人生を経験していないと定義上いけないことになるということ。」と仰いいました。 実は私はもとから経験しているのではなく、人間を通じて経験する、知る様になっていると考えています。ですから人間が現れる前はまったくの無知なる存在であり、人間が生まれて初めて人間を通じて作られた世界を体験するという考えを持っています。ご自身が作った世界なのに語の世界では無能な存在として立っているのではないかと思います。それを人間を通じて初めて感じることが出来るという考えは面白いかなと思います。
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