「茂木健一郎の脳の教養チャンネル」が新しいYouTube動画「アメリカ大統領選挙と、「幸福」についての幻想」を投稿しました!
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アメリカ大統領選挙と、「幸福」についての幻想
茂木健一郎の脳の教養チャンネル 茂木健一郎
動画へのコメント
- 誰でも幸せに暮らしたいと思いますよね。で、その幸せに達する条件は?と考えて色々行動していると思います。でもその前に幸せってどう言う事かともっと考える必要があると思います。そう言う意味で今一番思いつくのが茂木先生が仰る「生き甲斐」です。たとえ他人から見て大変そうな人生でもその中で自分がやりたい事、目指す事に日々挑戦出来る事自体とても幸せな事。行動の結果として手に入れる幸せもありますが実はそこを目指す日々の経過に本当の幸せがあるのではないかと、そしてその自分の役割を果たす事で誰かの幸せを支えて行ける事が幸せなのではと今改めて思っています
- いいお話
- 「己の不幸に酔う」という現象も、同じ構造から発生するのでしょうね。しかし、幻想の力を借りずに「死ぬ自由」を否定し「生きる義務」を説く事はできるのでしょうか?
- どんな役割も、世界の一部分なんだなあと思いました。そして、僕たちの場合は、その部分としての動力源が、たまたま幸福なのかなあと思いました。すると、もし幸福の幻想を手放したら、僕たちは非活性的になるかもしれない、かつ、それも含めて世界なのかなあと思いました。
- 味わい深いお話を聴きながら歩いてました。落語の煙草の火もまた久しぶりにジックリと聴きながら。…。有難うございます。動画、色々な詰め合わせが有るので愉しみです
- いいですねー> 茂木先生がここで仰ったことを、中世では「個と普遍との問題」で論じました。そしてそれは「神の知」論で包括されました。(続きはコメント欄で)
- 小沢一郎先生が以前、自民党の長期政権を問題とされ、二大政党制を主張されたのは、政策議論が弁証法過程の流れに乗ることで、常に止揚という発展を見出せるからだと思います。水平次元の二項対立ではなく、垂直方向を加えたスパイラルな発展を導くための議論を政策上で進めようとされました。 勿論、その手本がアメリカの共和・民主の二大政党制だったはずで、そこに民主主義の機能の有効性をシンプルに受け止められる様式があるとされたと思います。 ところが現在の状況は、個人のパーソナリティが前面に出てきて、政策がそれに付帯するだけになっている様に思えます。民衆が民主主義より、君主選びをしているところで留まっている気がします。原始的というか、野生の社会的動物の様に、どちらのボスについた方が得か、と言った選び方の様です・・・。
- フォーカスイリュージョンというのですね。勉強になりました。このキーワード使わせていただきます。とっても共感しています。大谷翔平選手はその通りに生きてます。究極なんでも良いのですね。信仰の道も感謝する事を説いています。
- そうですねほんと。
- ロミオswarmとジュリエットswarm・・・!さすが茂木先生です。その後の話があまり頭に入らないほどの衝撃でした。もう一度見ます。
- そーですよね。無いもの数えるより有るもの数えるほうが気が楽です。 何かを得る為に努力することは、大事ですが得られなかったからといって悲観することはない。 寧ろ、その事の方が得るものが多いのではないでしょうか。全ては、相対的なのですから。
- 何か目的を到達した先に「幸福」が存在する、ということはあり得ない。更に言うと、幸福云々は到達目標として掲げるようなものではなく、最初から人間に備わったものとして捉えている。オギャーと生まれた時が人間イチバン幸福。そこから10歳位までは幸福感に満ち溢れた人生を過ごすことになるけれども、知識が備わったり経験が加わるにつれ、そもそもの感受性自体が退化していくから、幸福を感受出来るのはせいぜいが12歳位までで、後はツマラナイ人間になっていくだけ。勿論、それはそれで仕方が無い。大のオトナが幸福云々を語ること自体無意味なのは、オトナやってる時点で幸福とは過ぎたもの、あり得ないものと思っているので。あと、政治家の仕事は下を見ること。ワタシに任せればこんな素晴らしい社会を作ってみせますと言ってくる奴は大体ダメ。人の天才的な可能性とやらには所詮は限界=上限があるけど、バカに下限は無いから。放置しておくと社会そのものが崩壊する(日本でも闇バイト問題とか兆候あり)。ヴァンス曰く、「既にローマ帝国末期のような状態」に陥っているアメリカで、宇宙へ選ばれた人達だけ連れて行くのを商売にしようとしてる奴を政権に入れるなんてもってのほかだよ。
- ディーナー博士の研究でしょうか? その場合、たとえば「アウシュビッツに収容されたことを不幸だと思うのは幻想だ」ということはできるのでしょうか? フランクルはそんな中でも生きていくことの意味を「夜と霧」のなかで書きましたが、「それでも人生にイエスという」というのは、むしろ「状況的には」絶望的なほど不幸なのではないでしょうか? 人生には「結局のところどっちでもいいこと」と、「本当に命をかけるべきこと」があるのではないでしょうか? ディーナー博士の言いたいことはわかりますが、実存的な意義というのはデータ解析では拾い上げることができない可能性が高いような気がしているので、今回の大統領選挙に「ALL IN」して、「アメリカの民主主義自体が、本当にあとがない」と真剣に思っているイーロン・マスクとかの「幸福や不幸」というのは、「結局どっちでもいい」みたいなものではないような気もしています。
- 茂木先生がここで仰ったことを、中世では「個と普遍との問題」で論じました。そしてそれは「神の知」論で包括されました。 その細部を「物語解釈の循環性」で、リクールやガダマーが論じたと思います。物語そのもので、その理解を示そうとしたのがミヒャエル・エンデで、その典型が『はてしない物語』ではないかと思います。映画『ジュマンジ』にも類型が観られます。 実際、本でも映画でも、「意識」がその「物語」に入って、主観の追体験を(誰しも)するわけで、その影響を受けて実生活を生きる事態も多々あると思います。茂木先生ご自身も、アインシュタインの伝記・記録の影響を受けておられると仰られていたと思います。 『新約』の「復活」のテーマは、少なくともパウロでは、その理解が非常に強いと思います。彼はイエス共同体を迫害する立場にあり、その為の根拠を探って、逆にイエスの言動の正しさを認識した結果、「復活体験」の物語を記して「回心」の途を示しました。 こうした全ての主観意識=私が主人公となれる「物語」を、天の父は無限に宿しているという思考法が、冒頭で言った「神の知」論でもあると思います。 「私の父の家には住まいが沢山ある。あなた方の為に、私は場所を備えに行くのです。」 (ヨハネ福音書14章2節)(因みに拙稿『日本カトリック神学会誌』第17号(日本カトリック神学会、2006年)171~181頁を、note「第2部 世界観・人間観の再構築の方向性―トマスの個体論研究の立場からー 第2部 第1章 多様化の極限―復活に与かる個体性―」 として上げてあります。)
- 茂木先生、Voicyでは温かい身に染み入るお言葉、ありがとうございました。なんだかとても背中を押して戴いたようで前向きな気持ちになりました。父はきっと私の記憶の中にずっと生き続けるのだと思います。そして、もしかすると、リスナーの方々の中でも… お話しは変わりますが、先生がおっしゃるように私達は、focusing illusion の中で生き続けているのですね。そう考えますと、Elon Musk さんは、focusing illusionの塊のようでけれども、一方では、自分を俯瞰している様に感じられます。そして、その切り替えが見事に早いのかも知れません。 すべては、focusing illusion ではあるけれども、そのsituation の中で精一杯頑張ってみるけれども、その中で過ぎてしまったことにくよくよせず、自分を俯瞰してみることも大事だということ、心しておきたいと思いました。
- その通りだと思います
- 素晴らしいお話でした。まさしく堕落論ですね……。それでも人生は続く。藝術はそんな現実と幻想の擦り合わせるための緩衝材のような気がします。「有り得たかもしれないもの」を俎上にのせ、清算するための。Stingじゃありませんが、幻想はトランプの手札のように感じます。賭けを通じて人は神と対戦しつつ対話するのではないでょうか。人は多様で瑣末な幻想に固執しているようで、じつはたった一つの超越という「幻想」に執着している気がしてなりません。
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