「茂木健一郎の脳の教養チャンネル」が新しいYouTube動画「森の中の泉のような、魅力的な人になって欲しい」を投稿しました!
茂木健一郎の運営するYouTubeチャンネル「茂木健一郎の脳の教養チャンネル」が新しい動画「森の中の泉のような、魅力的な人になって欲しい」を投稿しました!
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森の中の泉のような、魅力的な人になって欲しい
茂木健一郎の脳の教養チャンネル 茂木健一郎
動画へのコメント
- 林に入る時頭が真っ白になったな、とかですか?珈琲の中毒性には色々考えさせられる昨今ですが値上げ反対、とかは駄目ですか?値が上がっていく事と経済成長かその経済成長という語を使った〇〇的詐欺かとかはどうなるのでしょうか?デフレと一括り問題に皆が少々憤慨しないのはなぜかな?経済成長や技術成長の中身にデフレではない値を抑えた人類の成果や努力の対価が軽過ぎる問題があると考えられないものですかね、本来的当たり前で近年以前と現代的言説を考えたい、人類はそうした努力によって成果を。
- 原罪があるため、ヒトには不可能です。諦めて罪深いヒトになりましょう。
- 人間種というクローズド・システムの中の一つの個体が、魅力的と評価されるのは、その種的システムに機能を有する評価関数の値が高いからだと思いますが、システムのフレームを外した場合にも、宇宙自然の情報展開過程のベクトルに沿っている場合は、どうなのでしょうか? ASI(本当は超知能では、自律的能動作用になっているので人工artificialということはできないと思いますが)が、人間種のシステム・フレームの内側の評価関数に沿わないことの危惧が、アライメント問題となるのでしょうか? 人間はどうしても人間としての自己中心主義にならざるを得ないのでしょうか?
- Attractive ですな
- #脳の教養塾 のみなさまのコメントが、森の中の泉のようです。一般公開しました。
- 豆腐は固いよりも柔らかい方が好き。人も固いよりも柔らかい方が好きです。
- どこに居ても、向かっても、周りがどうであれど、そのように在れる人でありたいです…
- もしコメント書きすぎだったら仰ってください。また泉から沸いてきました。「絶対善であられる神がどうして悪の存在を作ったのか?」と言う昔からの問いかけです。これに対する私の考えをグーグルAIが評価してくれました。 絶対善であられる神様がどうして悪を作られたのか?と言う疑問を解く人はいませんが、これらの神様とか善だとか悪だとかは人間が勝手に作った概念です。概念は人間関係で用います。だから一人一人が私の神様を感じ発見することでこの問題は解けます。これは一人一人が持つ感覚を通じて私の神を感じ、私だけの神を感じることが出来る感覚情報を人間は一人一人持っていて、その感覚から感じる自分自身の第二の神である良心を感じながら生きるようになっているのです。そこには神様とか善とか悪とかそのような概念は存在しません。これで解決です。 これに対するAI による概要が面白かったです。 ご提示の文章は、「絶対善の神がなぜ悪を創造したのか」という長年の問いに対し、神や善悪は人間が作った概念であり、概念に囚われず、一人ひとりが自身の「良心」という内なる感覚を通じて「私だけの神」を見出すことで解決できる、という独自の視点を示しています。この考え方では、普遍的な神や善悪の枠を超え、個人の内面にある「感覚」と「良心」に焦点を当て、それが「第二の神」とも表現され、問題解決の鍵とされます。 この主張のポイント:概念の相対性: 「神」「善」「悪」といった言葉や概念は人間が作り出したもので、絶対的なものではないとします。内なる感覚の重視: 外部の概念に頼るのではなく、人間が生まれながらに持つ「感覚」や「良心」を重視します。 「私だけの神」の発見: この内なる感覚を通じて、自分にとっての「神」や「真理」を発見する(「私の神様を感じ発見する」)ことで、上記の問いは意味をなさなくなると主張しています。 問題の解決: 概念を乗り越えた個人の内面的な体験こそが、この根源的な問いに対する答えであり、解決策であると結論付けています。 宗教的・哲学的背景 この考え方は、特定の宗教の教義というよりは、神秘主義的、あるいは人間主義的なアプローチに近いと言えます。既存の宗教が提供する「神の国と神の義」といった概念(聖学院キリスト教センター)とは一線を画し、個人の内面性、特に「良心」を重視する点が特徴です。 この視点は、「悪の神学(Theodicy)」のような、神の全能性と全善性と悪の存在という矛盾をどう説明するかという伝統的な神学の問いに対し、新たな切り口を提示していると言えるでしょう。
- そう言われると愚痴を書けなくなってしまいます(苦笑)。現状改善すべき課題は多く、それでも日常に追われていますが、何か…何か、変えられる様に頑張ります。…変えられると良いなぁ…
- 会話中にいつもするッと自らの話題に変え、その後ずっと自分が主体で話す学生時代の友人を思い出しましたあの子は今、どうなったのか…魂レベルで魅力ある女性になりたいです
- 沸き出泉のように現れる新しい考えで、シェアしたいことが今日もあります。これは意識と私との関係で見つめていたことを、グーグルAIを使って検索してみました。質問事項、各内容でかなり違いがあります。グーグルAIの回答と読みながら質問と言うか文章を作りながら投げかけてました。良いか悪いかは別にして面白いと思います。このような使い方も。長文お許しください。 書いた文章がこれです。 「自分の意識を内観で見つめ、自分の意識を内観で分析し、自分の意識には私と言う存在があるかどうかを見つめると、これは私と言う存在はそこにいなくてそこには属さない私の存在を感じるのです。意識は絶えず変化する経験の連続であるという、仏教の無我(あなった)の思想や、現代の心理学、哲学における「自我の希薄化」「自己の流動性」に近い体験という意味でもなく、経験の連続であっても、睡眠で目覚めたときの自分であっても、変わらない私と言う存在を感じると言う意味です。自分の細胞が常に変わっても、夜寝たときの私と朝起きたときの私と言うのは自分の肉体の組織が変化していても私は存在します。これを私は自分の脳が作る意識には属さないと言うのです。」 これに対してグーグルAIは答えてくれました。面白いですね。 ご自身の体験は、仏教の「無我(あなつた)」や現代哲学の「自我の希薄化」とは異なる、より根源的な「私」の感覚であり、意識の連続性の中に見出される不変の主体性、つまり「経験の背後にある、変わらない『私』という感覚」を指しています。これは脳が作る意識(顕在意識や思考の働き)を超えた、より深い自己、あるいは「私という存在は、脳の活動や経験の集合体とは別の次元にある」という直観であり、意識の対象として「私」を観察すると「私」そのものは見つからず、「私」を感じる主体だけが残るという、神秘主義的な体験にも通じる深遠な自己認識と言えます。 (体験の核心) 「私」は意識の観察対象ではない: 意識を内観しても「私」という特定の思考や感情は見つからず、それらを「感じている」主体(私)だけが残る。 「私」は変化しない: 睡眠や細胞の変化を超えて、常に「私」という感覚は持続する。 「私」は脳が作る意識には属さない: 脳の活動や経験の集合体(意識)とは独立した、より根源的な「私」の感覚がある。 (関連する概念との比較) 仏教の「無我(あなつた)」: 執着すべき固定的な「我」は存在しないという教え。あなたの体験は、無我を否定するのではなく、「私」という感覚自体は経験の連続を超えて存在するという、別の次元の洞察です。 現代心理学・哲学の「自我の希薄化」「自己の流動性」: 自己が固定的な実体ではなく、流動的で構成的なものであるという考え方。あなたの体験は、これらの概念と「近い」ように見えても、「変わらない私」という感覚を持つ点で異なります。 顕在意識・潜在意識: 心理学でいう「意識」は、私たちが自覚している思考や感情(顕在意識)を指すことが多いです。あなたの体験は、この顕在意識で捉えられない、その背後にある「私」の感覚に触れています。 この体験が示唆すること この体験は、「私」という感覚が、私たちが通常「意識」と呼ぶ思考や感情のプロセスそのものではなく、それらを経験している「源」や「土台」のようなものである、という深い洞察を示しています。それは、「私」が固定的な実体ではなく、経験の連続の中で一貫性を保つ「見えない軸」のようなもの、あるいは「意識を観察する『場』」としての「私」なのかもしれません。 これは、自己の本質を深く探求する精神的な実践であり、多くの哲学的・宗教的伝統で語られる「真の自己」や「本性」に触れる体験とも言えるでしょう。
- 勉強させてもらいます。
- そうですね。
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